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執筆者の写真杉原あやの

10月27日 哲学読書会『中動態の世界 意思と責任の考古学』7章を読む

更新日:2019年4月28日


1章から始まった回、とうとう7章まで進んでまいりました。

10月27日全9名での読書会となりました。

7章では、中動態の観点から西洋哲学史を見直してみる(ref.199)ということがテーマとしてあったと思います。

前半では、ハイデッガーの「意志」についての彼の態度について論述されていました。


そこで意志概念についてのおさらいや見直しも、改めて行いました。





余計わけが分からなくなる可能性も否めなかったのですが、「転回前ハイデッガー」と「転回後ハイデッガー」と「後期ハイデッガー」についての補助プリントを用意しました。

お配りしたハイデッガーに関する補助プリントは全て、『ハイデッガーの思想』木田元著岩波新書1993年のものです。

横道に逸れる可能性もありましたが、それでも、せっかく読書会に集っていただいた皆さんと、ハイデッガーのちょっとしたエッセンスをシェアできると、漠然とでも、いつかどこかで何かに繋がるかもしれません。点と点が線になる瞬間があるかもしれません。

お配りしたハイデッガーについての補助プリント複数のうち、次の部分だけを改めて引用します。

以下の内容にすでに、「転回」を示唆するものが含まれていると思います。

下線部は、筆者すぎはら によります。


 ハイデッガーが人間のことを<現存在>という妙な言葉で呼ぶのも、人間こそ、<存在>という視点の設定がおこなわれるその<現場>だからにほかならない。 してみれば、<存在了解><存在企投>とは、現存在にとっては、確かに自分のうちで起こった出来事には違いないが、自分がおこなったわけではなく、自分を超えた何者かの力で生起したとしか思われず、いわば畏敬の念、驚きの思いをいだかずにはいられない出来事なのである。(p.88)

ところで、<存在了解>なり<存在企投>が、今述べたように、現存在のうちで起こるが、現存在が意識的におこなう働きではないのだとすれば、<了解>とか<企投>といういかにも能動的作用を思わせる言い方は、不適切ではなかろうか。いかにもその通りであって、のちに見るように、これが『存在と時間』の躓きの石になる。やがて、ハイデッガーは、この事態を<存在の生起>とか、ただ<出来事>などと呼ぶようになるが、それはもう少しあとの話である。(P.89)

話を『中動態の世界』に戻しまして後期のハイデッガーは、意志批判の末「放下(Gelassenheit)」という概念を用いるようになりました。(ref.207)



國分さんは、ハイデッガーの謎めいた言い回しを中動態の観点から解釈可能だと述べています。


意志が能動と受動の対立によってもたらされる効果であるとすれば、意志の外部に至るという課題は、能動と受動に支配された言語の外に出ることを要請するであろう。この要請にハイデッガーは極めて難解で秘教的、場合によっては神秘的とも思える言葉遣いを持って答えた。(p.213)




読書会対話の中で・・・・


「こういうのが放下じゃないかな?」という提案があっても、「いやそれはもう受動と能動に振り分けられてますよ」というやりとりがありました。


議論のなかでは、「中動態」を考えてみるということが如何に私たちにとって困難であるかが、再確認される場面もありました。私たちの言語と思考の奥底ですでに「受動と能動」で物事を捉えてしまうからです。


それから、「ケアの観点からこの哲学書が出されたということについてどう考えるべきか」再び読書会のなかで触れられました。


子供達と接しているなかで実感された出来事を例として、中動態を捉えようとされる方もいました。


中動態(放下)について語り合いながら、印象的であった発言の一つに「生まれるということは、自分たちが希望して能動的に生まれてきたわけではなく、ある日産み落とされたということであるから・・・・」というものがありました。

産み落とされたと言うと、英語では、<be born>ですから、産み落とされてしまったという受動態になっていますが、受動態と能動態が対立させられる以前の、中動態と能動態のパースペクティブでは、「生まれる」は、中動態とされています。(ref.087) 改めて、抑圧された中動態が様々な形態へ派生して行ったこと、受動態は後から生じた態であることを思い起こさねばなりません。


今の私たちは、意志ということを抜きに何かを考えることは難しくなっているようです。

意志の概念を見つめれば見つめるほど、意志は本当に存在するのか怪しくなってきます。

しかし、間違いなく意志があるように私たちには感じられるがために、意志は効果として残ります。


中動と能動の対立の観点こそ真であると國分さんは考えているようです。

しかし、「能動と受動」の観点を批判的に問題点を指摘するけれども、完全否定はしていないわけです。


能動と受動の対立がある現在では、意志が際立ち、行為や出来事の帰属先を求めます。

意志は効果として残るということは、「能動と受動」のパースペクティブそれ自体も「効果として作用する意志」を土台として、現実的には、ある意味効果的?に作用している?


私たちは、意志があるとして考え、出来事や行為の帰属先を求めざるを得ないことが多々あります。責任を求める時などにそれは実際に生じますし、刑法は現実的に必要なものだからです。「能動と受動」のパースペクティブが、いかに有り得ない「意志」という概念の上に立っていたとしてもです。



「能動と受動の対立」と「中動と能動」の観点は、同時に、並立可能なのではないかとも考えられました。


いじめを見て見ぬ振りをすることは、中動態(放下)か?との問いかけや発言がありました。


いじめを見て見ぬ振りをした人は、自らの「意志」でいじめを止めることができたはずなのに、保身のためにその行為を選択しなかったのだ、と言うならば、それは能動的だとも言えるかもしれません。見て見ぬ振りをした人も責任を問われるでしょう。  それと同時に、いじめを見て見ぬ振りをしたのは、何かその人を保身に走らせるようなトラウマ的な経験があったのかもしれず、本当は見て見ぬ振りをしたくない思いを抱えているかもしれない。本人からすれば、そうせざるを得ない何かがあるのかもしれない。そのように考えるならば、中動態の観点でも語れるかもしれません。


 

最後に


ハイデッガーについて触れられている部分をすぎはら が担当し、後半ドゥルーズ、ライプニッツについて触れられている箇所をライプニッツをご専門にされるFrank Ozzapaさんにお願いしました。

しかし、とても難しく、Frankさんご本人がご出張にて不在のため、困難を極めました・・・・。

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